名字「形山」

読み方 かたちやま/かたやま
人数 およそ700人
由来・分布

山口県、広島県、岡山県、大阪府などにみられる。

使用漢字 /

※読み方や由来が掲載情報とは異なる場合があります。

名字「形山」のローマ字表記

読み方外務省ヘボン式ヘボン式訓令式
かたちやまkatachiyamakatachiyamakatatiyama
かたやまkatayamakatayamakatayama

※パスポートは「外務省ヘボン式」で表記されます。(長音表記・非ヘボン式表記・別名併記などの例外を除く)

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武蔵国 形山家さん

形山家本家は現在の足立区中川に存在し、近隣には10件弱の分家が存在する。形山家は武蔵国岩槻藩主・高力清長の家臣で長右衛門新田を拓いた浅田長右衛門らと共に江戸初期から農地開拓に従事し田畑を起こす。当町に現存する西光院には形山本家の墓があり、その墓誌の冒頭には「寛文二年」とある。また古くから存在する形山本家ならびに分家の墓は、先述の浅田長右衛門と浅田家の墓と隣同志である。なお浅田長右衛門の墓地は足立区文化財である。
江戸中期から昭和初期にかけて足立区の近隣や日本各地に分家が出ている。
不平士族が挙兵した西南の役では分家の形山新蔵が次男・形山松五郎が当時の東淵江村を代表して出征。肥後・日向・薩摩を勇戦し続けた。しかし刀瘡が切っ掛けで病を発症し帰還途上の兵庫県下和田岬病院にて逝去する。享年24歳と伝わる。当時の東淵江村の村長がその死を悼み、同町の長門八幡神社の境内に「形山松五郎碑」を建立した。その碑文の表面には松五郎の出生や人となり、転戦の記録が記載され、裏面には建立に携わった「東淵江村村長 金子峯助、助役 小川治助、村会議員 下嶋林蔵」らの記載がある。なおここに記載のある村長の金子峯助氏は資材を投げうって東淵江村の改良に尽力したため、その遺徳を称え大谷田の金峯稲荷神社の祭神として祀られている。また下嶋林蔵氏は昭和・平成の世に長門東部自治会の会長を務めた下嶋浩氏の祖父に当たる。
明治中期に現・足立区中川の本家から大阪の茨木市に分家が出ており、ゴム関連の工場経営で成功した。しかし子がいなかったため本家から姪を迎え、彼女は5人の子を残したと伝わる。
なお長右エ門新田の開拓から発展した形山家の家紋は「丸に片喰」である。

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